しゃちょの読書日記【ブログ更新しました】
書評:「悪役レスラーは笑う 増補版『卑劣なジャップ』グレート東郷」(森達也著)リングの上だけがプロレスではない。人生そのものがプロレスだ。
プロレスとは何か? 単なるスポーツか、エンターテインメントか、それとも人生の縮図か。
試合には筋書きがあると言われることもあるが、リング上の闘いは常に生身の人間が演じ、実際にぶつかり合う。
勝者と敗者、善玉と悪役、歓声とブーイングが渦巻くその舞台は、現実社会と何も変わらない。
そこには、戦略と駆け引き、成功と挫折、運命を受け入れる覚悟が求められる。
プロレスとは、リングの上だけで繰り広げられるものではなく、私たちが生きる社会そのものを映し出す壮大な闘いなのだ。
本書は、そんなプロレスの本質を体現した男、グレート東郷の壮絶な生き様を描く。
彼は戦後のアメリカで、日系人として生きるために、「卑劣なジャップ」という悪役を演じた。
リングに上がれば、観客の憎悪を一身に受け、罵声を浴びせられ、ブーイングに包まれる。
しかし、それは決してただの見世物ではなかった。
彼はその役割を引き受けることで、己の人生を切り拓き、アメリカ社会に爪痕を残した。
日本人であるがゆえに憎まれるのではなく、あえて憎まれる存在になることで、唯一無二の地位を築いたのだ。
だが、その道は決して平坦ではなかった。戦後のアメリカは、人種差別と排外主義が色濃く残る時代。
東郷は、その渦の中で「悪役」という仮面をかぶりながらも、決して屈することなく、自分だけの戦いを続けた。
レスラーとしての彼の成功は、単なる勝ち負けではなく、「憎悪を利用してエンターテインメントを成立させる」という、社会の裏側を理解した者にしかできない芸当だった。
彼は、プロレスを単なるスポーツとしてではなく、「生きるための戦場」として捉え、己の役割を全うしたのだ。
この姿勢は、ビジネスの世界や社会の中で戦う我々にも通じるものがある。
時に理不尽な評価を受け、周囲の反発を買いながらも、与えられた役割を果たし、最後まで戦い抜く。
悪役にならなければならないこともあるだろう。人々の憎しみを一身に受けながらも、その場に立ち続けることが求められる状況もある。
しかし、それは敗北ではない。最後までリングに立ち続けた者こそが、本当の意味での勝者なのだ。
プロレスとは、勝ち負けの世界ではなく、「いかにして最後まで戦い抜くか」の世界だ。
グレート東郷の生き様を知れば、その哲学がいかに奥深いものであるかが理解できるだろう。
人生には、誰もが自らの「リング」を持っている。そこで何を演じ、どう戦うか――それこそが、プロレス的な生き方なのだ。
本書を読めば、プロレスの見方だけでなく、人生そのものに対する視点が変わる。
リングの上だけが戦場ではない。生きること自体が、プロレスなのだ。
書評:「幻の石碑 鎖国下の日豪関係」(遠藤雅子著)
歴史の片隅に埋もれた「日豪交流」の痕跡を追う、壮大な知的冒険
歴史の舞台は、常に「記録される側」と「記録されない側」に分かれる。
歴史書に残るのは、勝者の物語、国家の物語であり、その陰に埋もれた名もなき人々の足跡は、時の流れの中で忘れ去られていく。
しかし、だからこそ、それらの「消えた物語」を掘り起こし、歴史の空白を埋める作業には計り知れない価値がある。
本書『幻の石碑 鎖国下の日豪関係』は、まさにその「失われた物語」に光を当てる、知的興奮に満ちた一冊である。
日豪関係といえば、第二次世界大戦の戦中・戦後の歴史、あるいは戦後の経済・文化交流が思い浮かぶかもしれない。
しかし、本書が焦点を当てるのは、それよりもはるかに昔――19世紀半ば、日本が鎖国政策を敷いていた時代の話である。
この時期、日本人とオーストラリアの住民が接触していた可能性があるという説は、これまでほとんど知られてこなかった。
しかし、本書は「タスマニアに残る渡航伝説」と「幻の石碑」の存在を鍵として、その可能性を追求していく。
この石碑は、タスマニアに日本人が関わった痕跡を残しているという説があるが、実際にどのような歴史があったのかは謎に包まれている。
著者・遠藤雅子は、既存の歴史資料ではなく、断片的な記録や伝承を手がかりに、その謎を追跡する。
彼女のアプローチは、単なる歴史研究にとどまらず、一種の探偵小説のようなスリルを感じさせるものだ。
証拠のわずかな断片を繋ぎ合わせ、そこから壮大な物語を浮かび上がらせるその手法は、歴史の「裏側」に隠された真実に迫る姿勢そのものだ。
特に興味深いのは、日本の鎖国政策が「完全な閉鎖」ではなかった可能性を示唆する点だ。
私たちは一般的に、江戸幕府の鎖国を「外国との交流を絶った政策」として理解している。
しかし、現実には密貿易や漂流民を通じた交流があったことが分かっている。
例えば、江戸時代末期には、漂流民がアメリカやロシア、東南アジアなどに渡った例が多数存在する。
本書のテーマである「日豪間の未知の交流」も、そうした鎖国下の実態の一端を明らかにする試みと言えるだろう。
本書を読んでいると、歴史とは「確定した過去」ではなく、「常に新しい解釈が加えられるもの」だということを実感する。
もし、タスマニアに日本人の足跡が残されていたとしたら、我々の知る日本史、そして日豪関係の歴史は根本から書き換えられる可能性がある。
それは決して「単なるトリビア」ではなく、日本人がどのように世界と接してきたのか、鎖国という概念がどこまで実態に即していたのかを問い直す、重要な発見となるかもしれないのだ。
さらに、本書の魅力は「歴史を探求するロマン」にある。
歴史というのは、教科書の年号や出来事の羅列ではなく、消えた足跡を探し、見えないつながりを見つけ出す“物語”である。
本書は、まさにその“物語”を追う楽しさに満ちている。もし、本書を手に取るなら、ぜひ一人の探究者の視点を持って読んでほしい。
果たして、日本とオーストラリアは本当に19世紀の時点で接触していたのか?
その答えは、読者自身が本書のページをめくる中で見つけることになるだろう。
単なる歴史書ではなく、知的冒険の書として本書を推薦する。
「歴史とは、記録されなかった出来事の積み重ねでもある」という事実を、本書は強烈に実感させてくれる。
記録されなかった側の視点を掘り起こし、忘れ去られた交流の可能性を考察する本書は、間違いなく歴史好きにとって必読の一冊である。
『蒙古襲来』服部英雄(山川出版社)——歴史の嘘を暴き、真実の戦いを解き明かす一冊
蒙古襲来——この言葉を聞くだけで、誰もが「神風によって日本が救われた」という話を思い浮かべるだろう。
鎌倉武士が勇猛果敢に戦い、最後は神の力によって勝利を手にした。そんな美談が今も語り継がれている。
しかし、本当にそうだったのか?
服部英雄が本書で行ったのは、「常識を疑うこと」だ。
彼は数多くの史料を徹底的に分析し、これまでの定説に鋭く切り込む。そして見えてきたのは、「神風」や「鎌倉武士の大勝利」といった話の多くが、後世に作られた“物語”であるという事実だった。
本書を読むことで、元寇という歴史が、ただの「侵略と撃退の物語」ではなく、もっと複雑で、人間的な要素に満ちた出来事だったことがわかる。
蒙古軍の実態、鎌倉武士の戦い、政治的な駆け引き、そして神風の真相——これらをひとつずつ紐解きながら、新たな視点で元寇を見つめ直すことができる。
「神風」は本当に日本を救ったのか?
通説では、「神風が吹いて蒙古軍を壊滅させた」とされる。
しかし、服部は史料を精査し、これに異を唱える。
確かに暴風雨は発生したが、戦の決着はすでについていた可能性が高い。
日本側は決して受け身の戦いをしていたわけではなく、実際には陸上戦でも善戦していた。
そして、蒙古軍側も長期戦に耐えられない事情を抱えていた。
つまり、日本が勝利したのは「神の加護」ではなく、「人の努力」だったのではないか——。
神風伝説は、後世において日本の精神的な支えとして強調された要素が大きかったというのだ。
「鎌倉武士の奮戦」はどこまで美談なのか?
鎌倉武士の戦いは確かに勇敢だった。
しかし、服部は「戦いの文化の違い」に注目する。
日本の武士たちは一騎打ちを重視し、個々の武勇に価値を置く戦い方をしていた。
一方、蒙古軍は組織的な戦術を駆使し、集団戦や弓騎兵戦を主体とする。蒙古軍は火薬兵器や毒矢なども使用し、日本の武士にとって未知の戦法を持ち込んだ。
結果として、鎌倉武士たちは最初の戦い(文永の役)では大混乱に陥った。
だが、その敗北を経て戦術を変え、次の戦い(弘安の役)では蒙古軍を迎え撃つ準備を整えた。
つまり、日本の勝利は「武士が最初から強かったから」ではなく、「敗北を学び、戦術を進化させたから」なのだ。
これは現代のビジネスや戦略にも通じる話ではないだろうか?
「蒙古軍の大軍勢」は本当に圧倒的だったのか?
「蒙古軍は14万人もの大軍を率いて日本を襲った」と言われる。
しかし、服部はこの数字に疑問を呈する。
遠征軍の兵力は、補給の問題から上陸後に大幅に減る。
さらに、戦いの最中に脱走兵や戦死者が続出し、実際に戦闘を行った兵の数は通説よりも少なかった可能性がある。
また、蒙古軍は決して無敵ではなかった。彼ら自身も海を渡る戦いに不慣れで、天候や補給の問題に苦しんでいた。
つまり、「圧倒的な大軍が襲ってきた」というイメージは、日本側が自らの勝利を誇張するために作り上げた部分もあったのかもしれない。
「元寇防塁は本当に役立ったのか?」
元寇防塁は、弘安の役に向けて築かれた防御施設だ。
これが蒙古軍の上陸を阻み、日本を守ったとされている。
だが、服部は「本当にそうなのか?」と問い直す。
蒙古軍は防塁のある博多湾だけでなく、別のルートから侵攻しようと試みていた形跡がある。
また、元寇防塁の築城には莫大な労力がかかり、武士たちはその維持に悩まされていた。
結局、この防塁が決定的な役割を果たしたのかどうかは、今も議論の余地がある。
本書の核心——歴史は勝者によって作られる
『蒙古襲来』は単なる歴史書ではない。これは、「歴史とは誰が語るかで変わる」ことを示す本だ。
日本の歴史教育では、元寇は「日本が外敵を撃退した偉大な戦い」として語られる。
しかし、それは本当に史実に基づいたものなのか? それとも、日本の誇りを守るために作られた「物語」なのか?
服部は、こうした視点で元寇を再検証し、「歴史の真実とは何か?」を突きつける。
また、本書が示唆するのは、「勝者の歴史観」だけでなく、「敗者の視点」も考える重要性だ。
蒙古軍はなぜ敗れたのか? 彼らの戦略は本当に間違っていたのか?
日本側が勝者として語る元寇の裏に、敗者の視点から見る別の物語があるのではないか——そうした問いかけが、本書には随所に込められている。
この本は、ただの歴史解説ではなく、「歴史をどう捉えるか」を考えさせる一冊だ。そして、その問いは現代にも通じる。
私たちは、「事実」を見ているのか? それとも、「事実の上に作られた物語」を信じているのか?
本書を読み終えたとき、あなたは「元寇」の見方が変わるだけでなく、「歴史とは何か?」という根本的な問いに直面することになるだろう。
これは過去の物語ではない。「いま」を生きる者のための書なのだ。
ドラマ評:「瞳の奥に」—— Netflixが仕掛ける、予測不能の心理スリラー
サスペンスとは、観る者を翻弄する芸術だ。
真実と虚構の境界が曖昧になり、登場人物の言葉一つ、仕草一つがすべて伏線として機能する。
そして、物語の最後にすべてがひっくり返る。その瞬間、我々はようやく気づくのだ——「ずっと騙されていた」と。Netflixオリジナルドラマ『瞳の奥に(Behind Her Eyes)』は、まさにその究極形とも言える作品である。
物語は、一見するとありふれた不倫劇から始まる。
シングルマザーのルイーズは、バーで偶然出会った魅力的な男性・デイヴィッドと出会い共に時間を過ごす。
だが、翌日、彼が新しい職場の上司だと知ることになる。
さらに、デイヴィッドには美しく洗練された妻・アデルがいた。
ルイーズは罪悪感を抱きながらも、デイヴィッドとの関係を断ち切ることができない。
そして、偶然にもアデルとも親しくなっていく——夫と妻、その両方と関係を持つという、危うい三角関係に足を踏み入れてしまうのだ。
しかし、本作は単なる恋愛ドラマではない。
「何かがおかしい」。
物語が進むにつれ、そう感じる違和感がじわじわと積み重なっていく。
デイヴィッドの隠し事、アデルの不可解な行動、そしてルイーズの夢に現れる奇妙な光景。
すべてが絡み合いながら、観る者を異様な緊張感へと引きずり込む。
本作の最大の魅力は、張り巡らされた伏線の巧妙さにある。
何気ない会話、さりげない視線、さりげなく映る小道具。
そのすべてが「後の衝撃」に向けて周到に仕掛けられている。
そして、ラストに至るまで気づかせないその構成力は、まさに見事としか言いようがない。
特筆すべきは、本作が持つ独特の心理的トーンだ。
登場人物たちは皆、表と裏の顔を持っている。
ルイーズの葛藤、アデルの謎めいた行動、デイヴィッドの抑圧された感情。
それぞれの視点で物語を追ううちに、観客は彼らの「瞳の奥」に潜むものに、得体の知れない不安を感じることになる。
そして、迎える最終話——観る者の想像を超える、驚愕の展開。
ここまで仕掛けられていた伏線が一気に回収され、すべての点がつながる瞬間、あなたはこのドラマに完全に翻弄されていたことを思い知らされる。
「そういうことだったのか……」という呆然とした衝撃。
そして、すぐにでも最初から見返したくなる衝動に駆られるだろう。
『瞳の奥に』は、単なるサスペンスドラマではない。
これは「視点を操作する物語」だ。
信じていたものが実は嘘であり、見えていたものがまったく別の意味を持つ。
あなたの認識そのものが試される、極上の心理スリラーである。
この衝撃を味わいたいなら、迷わずNetflixを開いてほしい。
2025年03月18日 00:00